真 ⊂ 善 ⊂ 美
真善美の考え方に最近ハマってるわけなのですが、真より善が大事、それより美が大事という話になると、なんかそういう高貴な話はどうでもいいみたいになるけどそうじゃなくて。よいサービスや良いプロダクトを作るためには、善や美の観点で考えることが結局真(役立つか・そしてそれが売れるか)につながるという話。
一般的な真善美の捉えられ方は別に別々のMECEなものじゃなくて「真 ⊂ 善 ⊂ 美」なんですよね。真=短期的・局所的な正しさ/善=中期的・関係的な正しさ/美=長期的・複雑系的な正しさというか。
プラグマティックにいうと美も善も真のひとつのありかた、ツールともいえる。真自体は、めちゃくちゃ狭くいうと「生き残るのに役立つか」だったりする見方もできる。善も美も、別に何か高貴なものとかじゃなくて、生きるため、生きやすくなるためのフレームだよなと思う。めっちゃHOWの話。
もうちょい事例をあげると、真は、まずは「正しいかどうか」。FACT。現実に対して、その認識がちゃんと当たっているか。ただ、人間にとっての真は、かなり「生きるのに役立つか」と結びついている。火は熱い。毒は危ない。この人は怒っている。この市場は伸びている。この仮説は再現する。そういう、世界の中でよりよく動くための現実把握。近代社会が強いのも、かなりこの「真」のおかげだと思う。
権威とか神話とか伝統とか空気ではなく、いったんベールを剥がして、何が本当なのかを議論する。
科学も、法も、会計も、契約も、民主主義も、根っこにはこれがある。では善は何か。善は、真と分離したものではなくて、真の射程を広げたものなんじゃないかと思う。
個人に閉じた短期の真ではなく、複数の人間、集団、関係性、中期的な時間軸まで含めた真。ある個人だけを見れば合理的でも、集団としては信頼を壊すことがある。
短期では得でも、中期では共同体を壊すことがある。
そういうところまで見たときに、「それは本当に正しいのか?」を問うのが善なのではないか。つまり善とは、道徳っぽい綺麗事というより、複数の人間が壊れずに生きるための現実適合性。
社会的な真。では美は何か。美はさらにややこしい。
美は、真や善よりもふわっとして見える。でも実は、もっと複雑で、もっと長い時間軸の真や善なのではないかと思う。短期的には役に立たない。個人に閉じても正しいとは言えない。集団にとっての善としても、すぐには説明できない。でも、なぜか美しい。なぜか残る。なぜか人間が深いところで肯定してしまう。
それはたぶん、人間の理性がまだ明示化できない、長期的で複雑な正しさを、感性が先に掴んでいるからなんじゃないか。損をしてでも筋を通すこと。誰も見ていないところで丁寧に振る舞うこと。すぐには役に立たない研究や芸術に人生を賭けること。合理性だけでは説明できない献身。あるいは、壊れていくもの、失われていくもの、報われないものにすら宿る美しさ。それらは短期の真でも、わかりやすい善でもない。
でも、もっと長い時間で見ると、人間が人間であるために必要な何かだったりする。
だから自分の中では、
真=局所的な正しさ
善=関係的な正しさ
美=長期的・複雑系的な正しさという感じがしている。
もちろん、全部を真に還元できると言い切ると雑かもしれない。善には価値の選択があるし、美には生存合理性だけでは説明できない過剰さがある。でも、少なくとも真善美は、バラバラの高尚な教養ワードではない。
人間が世界に適応し、他者と共存し、意味を見出すための、三つのスケールの認識なんじゃないかと思う。本当か。よいことか。美しいか。これは、知性・倫理・感性の話であると同時に、短期・中期・長期の現実適合性の話でもある。そしてたぶん、強いプロダクトも、強い思想も、強い物語も、強い生き方も、この三つがどこかで重なっている。


