掃除の極意
良い「秩序」は、創造性の味方。
掃除はとても苦手なのだけど、最近「道の掃除」と思うと、わりと手が進むことを発見した。
部屋は「居る」ためのスペースと、「移動する」ためのスペースに分けられる。前者は、多少散らかっていてもいい。むしろ、本が積まれていたり、よくわからないものが置かれていたり、昨日の自分の思考の残骸みたいなものが散らばっていることで、思わぬ発見があったりする。自分の中のアーティスト気取り人格は、ここぞとばかりに「多少ごみごみしてたほうが創作意欲が高まるんですよー」などと言い始める。
まあ、わからなくもない。創作にはカオスが必要だ。全部が整理され、分類され、正しい場所に戻されている空間というのは、たぶん少し死んでいる。余計なものがない空間には、余計なものから生まれる何かもない。
ただし、それは「居る場所」の話なのだ。
部屋の中には、明確に区分けされてるわけではないけど、自分が移動する道、動線がある。机まで行く道、ベッドまで行く道、本棚まで行く道、玄関まで行く道。そういうスペースの床に、大きなゴミが落ちていたり、本や物が積まれていたりすると、単純に歩きづらい。毎回ちょっと避ける。跨ぐ。引っかかる。足元を気にする。たぶんそのたびに、無意識に小さくストレスを受けている。
部屋はカオスでもいいし、そっちのほうが落ち着くとかあるのだけど、「道」に落ちているものは、邪魔なだけである。これは事実である。気合いとか美意識とか以前に、単に移動効率が悪い。
これはPCの中も同じで、ブラウザのタブが大量に開いていたり、デスクトップが散らかっていたりすると、作業そのものというより、作業と作業のあいだの移動がつらくなる。文章を書く。調べものをする。Slackを見る。別の思考に切り替える。そのたびに、どこに何があるのかわからない状態になっていると、思考の道が詰まる。
コンテキストスイッチ。これは、要するに頭の中の移動である。
だから、PCの整理も「きれいにする」ためではなく、「次の思考へ移動する道を確保する」ためにやる、と考えるとかなり腑に落ちる。タブを閉じる。デスクトップを空ける。いま使っていないファイルをしまう。これは管理ではない。創作性を殺すための整理整頓ではない。むしろ、次の偶然や飛躍に向かうための通路を空けている。
たしか有名な実験で、封筒を作って、その中にDMを入れて、封を閉じる、という作業があって、これを、ある2つのやり方で、たくさんDMを仕上げる時、どちらが早いかを比較するという実験。(各工程Youtubeに動画があった)
まず紙を全部折る、次に全部封筒に入れる、最後に全部封をする、というふうに、工程ごとにまとめてやるというやりかた(Mass Production)。もうひとつが、1通ずつ折って、入れて、封をして、完成させると言うやりかた(One Piece Flow)。
どっちが早いと思います? ぜひ動画で確認を。
直感的には、Mass Production、工程ごとにまとめてやったほうが効率がよさそうに見える。同じ作業をまとめてやるほうが、動きに無駄がないように見えるからだ。
でも実際には、One Piece Flow、1通ずつ折って、入れて、封をして、完成させるほうが速い。
理由のひとつは、途中まで作ったものを置いておく場所が必要になるから、と言う話がある。折っただけの紙。封筒に入れたけど、まだ閉じていないもの。封をする前のもの。それらを一時的にストックしておく場所がいる。その場所が作業スペースを圧迫する。圧迫された作業スペースの中で、また次の作業をする。すると、少しずつ効率が悪くなる。
これは、プロダクト開発の業界では、リーンスタートアップという手法の有効性を示すための挿話としてよく使われるのだが、それはおいといて。
人間は、この「途中のものを置く場所が必要である」という現実的な制約を、けっこう忘れる。
頭の中で作業を考えているとき、作業スペースは無限にあることになっている。だが、現実には、途中のものはどこかに置かれる。その「どこか」は、机の上であり、床であり、部屋であり、ブラウザのタブであり、デスクトップであり、自分の注意力である。
未完了のものは、中立ではない。まだ読んでいないタブ。まだ分類していないファイル。まだ片づけていない本。まだ返信していないメッセージ。まだ仕様に落ちていないアイデア。まだ出していない文章。そういうものは、ただ「まだ途中」なのではなく、こちらの作業スペースや思考スペースをじわじわ占有している。
だから、小さく完成させることには意味がある。封筒なら、1通完成させて箱に入れる。タブなら、不必要になった時点で閉じる。床の本なら、本棚に戻すか、少なくとも床にはおかない。仕事なら、巨大な構想をずっと抱え込むのではなく、小さいアウトプットにして、誰かにまずは見せる、MVPを作る。
完成品は箱に入れられる。未完了品は、道を塞ぐ。
このあたりで、掃除とDM作成作業とPC整理が、自分の中で同じ話になってくる。効率とは、同じ作業をまとめて処理することではない。効率とは、流れを詰まらせないことなのだと思う。
たぶん自分は、「秩序」という「正しい」ものに対して、わりと反発がある。ちゃんとしなければならない。整理整頓しなければならない。正しい手順で管理しなければならない。そういう声が自分の中でする。その声に従って動こうとすると、だいたい面倒になる。掃除も続かない。タスク管理も続かない。生活も、なんか急に官僚制になる。
ただ、この話はけっこう、秩序とか官僚制とか、そういうものの話にもつながる気がしている。
秩序は、しばしばカオスやイノベーションの敵として語られる。官僚制は、手続きを増やし、管理を増やし、世界をどんどん陳腐なものにしていく。未来は空飛ぶクルマではなく、管理画面になっていく。巨大ロボではなく、承認フローになっていく。
まあ、それはそう。かなりそう。
過剰な秩序は、カオスを殺す。過剰な管理は、創造性を殺す。すべてが正しく分類され、最適化された世界は、退屈。
しかし、だからといって。この話で言いたいのは。秩序そのものを否定すればよいのかというと、たぶんそれも違う。ということなんです。
完全なカオスは、自由ではない。足の踏み場のない部屋である。タブが100個開いたブラウザである。仕掛かり在庫が山積みになった作業台である。そこでは人は自由に動けない。
自由とは、ただ散らかっていることではない。自由とは、動けることなのだ。
そう考えると、良い秩序と悪い秩序の違いが見えてくる。悪い秩序は、カオスを殺す。良い秩序は、カオスが息をするための道を作る。
悪い官僚制は、道を塞ぐ。良い官僚制は、道を通す。悪いルールは、人間から判断を奪う。良いルールは、余計な判断を減らして、人間がもっと大事な判断に集中できるようにする。
つまり、秩序の目的は、すべてを支配することではなく、流れを殺さないことなのだと思う。
掃除とは、秩序を作ることではない。掃除とは、道を作ること。未来の自分が、ちゃんと次の場所へ移動できるようにすること。部屋の中でも、PCの中でも、頭の中でも、組織の中でも、道が塞がると、不自由になる。
カオスはあっていい。ただし、道に出てくるな。
そう思うと、自分の中の「多少ごみごみしてたほうが創作意欲が高まるんですよー」というアーティスト気取り人格を、わりと冷静にぶん殴ることができる。いや、カオスは否定しない。お前の居場所は残す。ただ、道に出てくるな。そこは通る場所だから。
秩序はカオスの敵ではない。悪い秩序が、カオスの敵なのだ。よい秩序は、カオスのために道を空ける。
道があるから、迷える。道があるから、脱線できる。道があるから、どこかへ行ける。


