死ぬ前に「まあ、味わったな」と思いたい
しかし、自分も含めて、ほんとにみんななんのために仕事してるんだろうな、と思うことがある。もちろん生活のためではある。お金のためでもある。社会に価値を出すためでもある。誰かの役に立つためでもある。そういう答えは全部正しい。ただ、それとは別に、もう少し身体感覚に近いところで見ると、仕事というものが、だんだん「ドーパミンが出やすいほう、出やすいほう」を探すゲームになっていないか、という気もする。売上が伸びた。数字が上がった。評価された。褒められた。勝った。達成した。前に進んだ。もちろん、そういう快感は大事だ。ドーパミン的な報酬がないと、人間はなかなか動けない。仕事に限らず、創作だって、勉強だって、スポーツだって、何かがうまくいったときの快感がなければ続かない。だからドーパミンが悪いと言いたいわけではない。問題は、仕事というものが、あまりにもその味に最適化されすぎていないか、ということなのだと思う。
腸内環境って多様性が大事とか言われたりするけど、脳内環境もドーパミン一色じゃなくてオキシトシンとかセロトニンとかノルアドレナリンとか様々な味のある幸せにつながる脳内物質で多様な幸せを味わうほうが良いし、死ぬ前に満足感がある幸せは多様な幸せな気はする。腸内フローラならぬ脳内フローラ。ドーパミン一色ではなく、セロトニン的な落ち着きもあり、オキシトシン的なつながりもあり、ノルアドレナリン的な緊張もあり、もっといろいろな味の幸福が混ざっていたほうがいいのではないか。正確な脳内物質の話としてはそんな単純ではないのだろうけど、少なくとも比喩としては、かなりそういう感じがする。
これは自分の価値観(好み)として何か一つを極めるというより可能な限りにおいてなるべくなら世界とか人生をいろいろな角度から味わいたい、自分なりに味わい尽くしたといって死にたいという願望が強いというところからの意見な気はします。何か一つを極める人生ももちろんすごいし、それはそれで美しい。ただ自分としては、可能な限りにおいて、自分の分を鍛えつつ、自分なりに、できるだけ味わい尽くしたといって死にたい。何者かになりたいというより、世界のいろいろな手触りを知りたい。勝ちたいというより、味の種類を増やしたい。
人生の最後に、何をもって満足するのかと考えると、単に何かを達成したとか、勝ったとか、稼いだとか、そういうことだけでは足りない気がする。もちろんそれも大事なのだけど、それだけだと、なんというか、ずっと同じ味の濃い料理を食べ続けている感じがある。美味しいし、刺激もあるし、カロリーもある。でも、酸味や苦味や香りや余韻がない。死ぬ前に「まあ、味わったな」と思える幸福は、たぶんもっと多様なものなのだと思う。
ところで、趣味と仕事、どちらもやってることはそんなに変わらないことがある。創作活動を仕事にしてるひとはとかにそうだろう。でも明確に、手触りが違うといったとき、言語化すると、趣味活動のほうが、脳内活動のバランスがいい気がするのだ。もちろん創作にもドーパミンはある。完成した、うまく書けた、褒められた、伸びた、誰かに届いた、という快感はある。でも創作には、それだけではない多用な脳内物質が動く感覚がある。自分で作ったものを眺める満足感。意味があるのかないのかわからないものを愛でる感覚。同好の士に見せて、「あるよね〜」と言い合う時間。そういうものが、仕事では無駄として削られやすい。
たぶん太古の狩猟時代に遡れば、狩猟の喜びは現代の仕事に近かったのだと思う。獲物を追う緊張があり、仕留める達成があり、食糧を得る生存上の意味がある。そこには強い快楽がある。ただ、それだけで人間の集団生活が成立していたわけではないのではないか。だから儀礼があり、祭祀があり、歌があり、踊りがあり、物語があり、装飾があったのではないか。
それらは、生存に直接役立つわけではない。獲物が増えるわけでもないし、明日の食糧が保証されるわけでもない。でも、人が集団で生きていくうえでは必要だったのだと思う。緊張と達成だけでは足りない。人は、世界を厳粛に味わう時間が必要だし、みんなで同じものを見て笑ったり泣いたりする時間が必要だし、意味のないものに意味を与える時間が必要なのだと思う。
この世からエンタメや趣味活動がなくならない理由は、そこにあるのかもしれない。エンタメや趣味は暇つぶしではない。仕事や生活のなかで切り捨てられた幸福の種類を回復する装置なのだと思う。生活のためには不要とされた活動、成果に直結しない活動、生存にすぐには役立たない活動。でも、それがないと、人間の脳内環境は単調になってしまう。人間は、生き延びるだけでは足りない。味わわないといけない。
そして本当は、仕事にもそれがあっていいのだと思う。成果を出すだけではなく、成果物を味わう。勝つだけではなく、作ったものを愛でる。速く回すだけではなく、「これ、いいよね」と言い合う。役に立つだけではなく、美しい、面白い、変だ、好きだ、という感覚を残す。そういうものを全部削った仕事は、たしかに効率的かもしれないけど、幸福の味としてはかなり単調になる。
よい仕事とは、成果が出る仕事である。これは間違いない。ただ、もう少し言うなら、よい仕事とは、幸福の種類が多い仕事なのではないか。達成があり、緊張があり、承認があり、仲間との共感があり、手触りがあり、余韻があり、意味があり、美しさがあり、くだらなさがある。そういう仕事は、たぶん強い。単に楽しい仕事というより、人間の脳内環境にとって豊かな仕事なのだと思う。
仕事にも、創作にも、生活にも、もう少し「味わう」時間を取り戻すこと。たぶんそれが、死ぬ前に「まあ、けっこう味わったな」と思える人生に近いのだと思う。
そして、最後に付け加えると、だから僕はsubstackをはじめたのだろう。


