モテたい
最近色んなとこで「モテたい」と言ってる。その瞬間「マジでガチヤバいヤツ」という思考を目の奥に潜ませつつ、まだ私を友だちと思ってくれている方からは「どういうことですか」と真意を問いただしてくれる。
いや、モテたくて。
最近、人生、結局かなり大事なのはこの「モテたい」なのではないか、という気がしているのです。
あ、閉じないでください。待ってください。
もちろん、まあ、一応私を完全倫理観ない勘違い野郎と普段からみなしてる人以外は想像されただろう通り、ここで言いたいのは、恋愛市場で勝ちたいとか、異性にチヤホヤされたいとか、そういう話だけではない。いや、そういう話もまったく含まないわけではないし、これからいいたいことは、その要素を抜けば綺麗事になってしまう故、そこをあえて排除はしないが、人間にとって「モテたい」という欲望は、もう少し広いものだと思う。
見られたい。選ばれたい。気にされたい。誰かの記憶に残りたい。自分の存在が、他者の中に何かを起こしてほしい。そういう欲望の総称として「モテたい」があるのではないかと思う。
つまり、モテたいとは、他者の中に自分の居場所を作りたいという欲望なのかもしれない、と思う。
としたときに、なんでいま「モテたい」と社会性を疑われかねない危険な発言をあえてするか。それぐらい、この欲望を見ないふりをして歩み始めた人生が、驚くぐらい精彩を欠いたものになっている可能性を、感じたのです。
モテたいは、かなり根源的な欲望だと思う。人間は、ひとりで完結している存在ではない。誰かに見られ、誰かに呼ばれ、誰かに欲望され、誰かに必要とされることで、自分の存在を確認しているところがある。だから「モテたい」は軽薄な欲望のようでいて、実はかなり深い承認の問題でもある。
まあようは魅力的な人間になりたい、という話ではあるのだけど。
ただ、魅力というと、知性があるとか、優しいとか、仕事ができるとか、センスがいいとか、そういう話になりがちである。もちろんそれらは全部大事だ。でも、それだけではない。人間は身体を持っている。声がある。姿勢がある。視線がある。距離感がある。触れたい、近づきたい、選ばれたい、誰かの欲望の対象になりたいという感覚がある。
ここを抜いて魅力を語ると、どこか嘘っぽくなる。
もっと踏み込んでみる。モテる、魅力。そのひとつの局地であり通常の社会的な場では語られること自体排除されがちな、性的魅力。人間が身体を持った生物である以上、魅力のかなり大きな構成要素のひとつだと思う。知性の魅力もある。倫理の魅力もある。才能の魅力もある。思想の魅力もある。優しさの魅力もある。でも、それらが人間の身体性と切り離された純粋な精神の話だけで成立しているかというと、たぶんそんなことはない。
声がいい。姿勢がいい。目線に強度がある。余裕がある。清潔感がある。少し危うい。でも崩れすぎてはいない。そういうものは、露骨に性的ではないけれど、かなり身体的な魅力に近い。性的魅力というのは、単に露出や誘惑の話ではなく、もっと広く、身体を持って生きている存在としての説得力なのだと思う。
だから、魅力の根っこには生命感がある。
この人は生きている。このプロダクトは生きている。このブランドは生きている。この思想は生きている。この場所は生きている。そう感じるものに、人は惹かれる。
生命感とは、単に元気ということではない。むしろ、何を欲しているのかが見えることだと思う。何を愛しているのか。何に怒っているのか。何を許せないのか。何を守りたいのか。何を失いたくないのか。どんな未来に賭けているのか。そういう欲望の輪郭が見えると、そこに魅力が生まれる。
逆に、魅力のないものは、欲望が薄い。
機能はある。便利ではある。デザインも悪くない。説明も通っている。でも、何を美しいと思っているのかわからない。何をよしとしているのかわからない。どんな世界に人を連れていきたいのかわからない。そういうものは、使えるかもしれない。でも、好きにはなりにくい。
これはプロダクトでも同じだと思う。よいプロダクトは、単に課題を解決するだけではない。ユーザーを、ある世界へ誘う。こういうふうに働ける。こういうふうに創れる。こういうふうに人とつながれる。こういうふうに自分を表現できる。こういうふうに生活できる。こういうふうに生きられる。その世界に入りたいと思えるかどうか。そこに自分を重ねられるかどうか。それが魅力になる。
だから、プロダクトにおける魅力は見た目だけの話ではない。言葉、操作感、速度、余白、制約、価格、コミュニティ、思想、ユーザー像、作り手の態度。その全部から、何を欲しているのかがにじみ出る。そして、そのにじみ出たものに人は反応する。
魅力とは、かなり雑に言えば、他者の中に欲望を発生させる力である。
もっと知りたい。もっと近づきたい。もっと使いたい。もっと話したい。もっと見ていたい。もっと信じたい。もっと自分の生活の中に置いておきたい。そういう「もう少し」を発生させる力。
脳内物質っぽく言えば、魅力にはドーパミン的な「もっと知りたい」がある。ノルアドレナリン的な「ドキッとする」がある。セロトニン的な「信頼できる」がある。オキシトシン的な「心を開いてもいいかも」がある。エンドルフィン的な「一緒にいると気持ちいい」がある。
つまり「モテる」、魅力とは、単純な快楽ではなく、かなり複合的な状態なのだと思う。安心だけだと退屈になる。刺激だけだと疲れる。正しさだけだと冷たい。親密さだけだと閉じる。謎だけだと不安になる。魅力的なものは、このあたりの配合がうまい。
安心できるけど、完全にはわからない。信頼できるけど、少し揺さぶられる。近づきたいけど、すべては手に入らない。理解できそうで、理解しきれない。
魅力には、余白が必要なのだと思う。不完全であること、ともいえる。正しくない、とも言える。
全部説明されているものは、わかりやすいけど、魅力が薄くなることがある。全部最適化されているものは、便利だけど、記憶に残らないことがある。全部正しいものは、間違っていないけど、人間が入り込む隙がないことがある。
人間は、完成品よりも、どこか未完のものに惹かれる。矛盾があるもの。偏りがあるもの。欠落があるもの。欲望があるもの。まだ燃えているもの。そういうものに惹かれる。不完全だからこそ愛でられる。
「モテる」というのも、たぶんこの話の一部である。
魅力とは、結局、人間の欲望をどこへ向けるかの問題なのだと思う。人を惹きつける。時間を使わせる。注意を奪う。記憶に残る。自己像に影響する。生活の一部になる。これはかなり強い力である。
ただ、魅力的であることは、力を持つことだ。そして力を持つなら、その力をどう使うのかが問われる。
よい魅力とは、人間の欲望を少しだけよい方向へ向けるものなのではないか。使ったあとに、自分が少しよくなった気がする。関わったあとに、世界が少し広がった気がする。近づいたあとに、自分の欲望が少し整った気がする。そういう魅力が、たぶん強い。
性的魅力やモテは、人間の魅力認知における巨大な重力である。ただし、それは倫理性や能力や信頼性とは別物であり、しばしばそれらを上書きしてしまう。だから、無視してはいけない。でも、支配されてもいけない。
表に出しすぎると下品になる。無視すると嘘になる。抑圧しすぎると歪む。統合できると、色気になる。この「統合された欲望」みたいなものが、高度な魅力なのかもしれない。
モテたい、とい冒頭でいました。問題は、モテたいと思うことではない。美しくモテたい。どうモテたいのか。何によってモテたいのか。モテることで、他者の欲望をどこへ向けたいのか。
人も、プロダクトも、ブランドも、思想も、たぶんモテたほうがいい。よいプロダクトも、よいブランドも、よい人も、よい思想も、単に正しいだけでは足りない。単に便利なだけでも足りない。単に善良なだけでも足りない。
モテるプロダクト、モテるブランド、モテる人とはなんだろうか?そこに、なぜか惹かれるものがあるか。もう少し近づきたいと思えるか。自分の生活や人生の一部にしたいと思えるか。
と考えるだけで、違うHOWに思い至るなとプラグマティックに思うところがあります。そんなこんなでモテたい、と思うようになりました。結局まあ「美しくありたい」ということなのだと思います。


